社会という教科を教える前提について
先日、塾の生徒が「社会の授業で三権分立をやっているけど、難しいんです。」と言っていました。
そこで、具体的な事例として、
私「ある人が強盗して1000万円盗みました。これは、犯罪ですか?」
生徒「犯罪!。」
私「それでは、道端に落ちていた1000万円を拾いました。これは犯罪ですか?」
生徒「違う。でも警察に届けにいかないといけません。」 (そうだ、エライ!)
私「その区別は、どこで決まっているの?」
「区別を作っているのが法律で、この法律を作っているのが立法府、国会だよ。」
「さっきの例で、家族の病気を治すために仕方なく強盗しとしたら、それはどれだけ悪いことなんだろう?」
「犯罪をおかしたら、懲役とかの罰を受けるけども、どのくらいの長さにするかを決めるのが、
司法といわれる裁判所だよ。いろんな事情を考えて長さを決めるんだよ。」
「そして、悪いことをした人を逮捕したりするのが警察だよね。法律にもとづいて、仕事をする。
これが行政、政治といわれるんだよ。」
「法律をつくるところ、法律を実行するところ、法律にそって裁くところが全て同じだったら、
勝手なことができてしまうよね。そうならないように、つくるところはつくるだけ、
実行するところは実行するだけ、裁くところは裁くだけというように、権力を縛っておいて、
勝手なことをしないようしているんだよ。それが三権分立だね。」
これは、自由と民主主義を大切にしてきた私たちにとって、当たり前の説明です。私たちの世界は、人間の権利を守るために、このような政治の仕組みを作ってきたんだよと説明することは、大切なことです。
しかし、今の世界を見ると、本当に、自由と民主主義が守られているとは言えない動きがたくさん出てきています。香港での国家安全維持法をめぐる動き、次期大統領選挙のことしか考えていないと思われるアメリカのリーダー、日本でも、国会や司法が政府に忖度しているとしか思われない嘆かわしい現状。私たちの現実世界では、三権分立が正しく機能していないような現象が目立ちます。生徒に教えるべき社会の仕組みが、うす汚れてしまっているような気さえします。
社会を教えるには、自分たちの社会が、誇れるもの、美しいものになっていなければいけないと思います。
そこのところでは、単なる知識や、知識の暗記方法、問題の解き方だけではなく、自分たちの社会はどうあるべきか、めざす方向、自由と民主主義をこれまで獲得してきた歴史、世界の他の国の様子をしっかりと子供たちに伝えていかなくてはならないと思います。